# 第3話 勇者、転職する
「認められません」
王城の契約管理室で、担当官は開口一番そう言った。予想通りだった。
「どの条文を根拠に?」
「条文?」
「契約解除を認められない根拠です」
「勇者が辞めるなど前例がない」
「前例じゃなくて契約の話をしています」
俺は机の上に《勇者雇用契約書》を置いた。三十二ページ。赤い栞まで挟んである。
「契約期間中、勇者本人の都合により本雇用契約を中途解除する場合、違約金として金貨百枚を王国へ納付する。ここですね」
「それは……」
「金貨百枚、持ってきました」
アーデル商会の証書を横に置く。担当官の動きが止まった。
「本物です。必要なら商会へ照会してください」
「そういう問題ではない!」
「どういう問題です?」
「レン殿は勇者だぞ!」
「知っています」
「王国が召喚し、育成し、装備を与え、魔王軍に対抗するために――」
「契約した」
俺が途中で言うと、担当官が睨んできた。
「だから契約通り解除します」
「……貴様は何者だ」
「転職屋です」
「そんなことは聞いていない!」
後ろで神崎さんが吹き出した。担当官に睨まれて、慌てて口元を押さえる。担当官はしばらく俺を睨んでいたが、やがて神崎さんへ向き直った。
「レン殿。本当に辞めるおつもりですか」
「はい」
「王国はあなたを必要としている」
「分かっています」
「東部では今も魔物被害が続いている。北では魔王軍の活動も活発化している。あなたが抜ければ、誰かが代わりに戦わなければならない」
「はい」
神崎さんの「はい」が、少しずつ小さくなっていく。
「王国の民を見捨てるのですか」
神崎さんが黙った。俺は口を挟まなかった。辞めろと説得するのは俺の仕事ではない。しばらくして、神崎さんが俺を見た。
「佐伯さん」
「はい」
「俺、残った方がいいですかね」
「俺に聞かないでください」
「え」
「残りたいなら残ればいいです」
担当官の口元が少し緩んだ。
俺は続けた。
「ただ、残るなら条件は変えましょう。週休二日。休日の呼び出しは原則なし。給与は少なくともアーデル商会と同水準。対人戦争への参加は本人が同意した場合だけ。この条件で王国と再契約するなら、俺は止めません」
担当官の眉が跳ねた。
「月金貨二十枚だと?」
「民間の提示額です」
「勇者は金のために戦うものではない!」
「じゃあ、休みだけでも出せます?」
「魔王軍の状況次第だ」
「具体的には?」
「それは軍務局が判断する」
「休める日は約束できないってことですね」
「週に二日、休めますか」
「毎週確約はできない」
「一日なら?」
「戦況による」
「月に四日は?」
「だから戦況次第だ」
「分かりました」
神崎さんは俺の方を見た。
「辞めます」
「はい」
担当官が立ち上がった。
「レン殿!」
「俺、魔王軍と戦うのは嫌じゃないんです」
さっきまで小さくなっていた神崎さんの声は、今度は揺れなかった。
「人を助けるのも嫌いじゃない。多分、また必要なら戦います。でも、一度辞めます」
「そんな勝手が――」
「契約に書いてあるので」
俺は口を挟まなかった。そこは本人が言う方がいい。
担当官が黙ると、ようやく手続きが始まった。契約神殿から神官が呼ばれる。高額契約の原本を預かる公証機関だ。
神官が原本と写しを照合し、アーデル商会の証書を確認する。金貨百枚が納付され、契約解除の手続きが進んだ。一時間ほどして、神崎さんの左手首にあった赤い契約紋が消えた。
「これで、王国との勇者雇用契約は終了しました」
神官が淡々と告げる。
「再契約がない限り、王国がレン殿に勤務を命じる権利はありません」
続けて、王国支給の鎧と馬の返却書類、それに宿舎の退去書類へ署名する。聖剣は、昨日確認した通り返却対象ではない。
担当官は最後まで眉間の皺を解かなかった。王城を出たあと、そのままアーデル商会へ寄った。神崎さんとグスタフ人事部長が、俺の作った雇用契約書を一条ずつ確認する。
職種は高危険度護衛。月十二日勤務。連続二日の休日を月四回。危険任務には追加報酬。本人が希望しない対人戦争には参加しない。
「勇者じゃないんですね」
「辞めたので」
「そっか。そうですよね」
神崎さんは、なぜかそこで少し嬉しそうだった。
契約を解除できる条件も、双方について同じページにまとめた。
「全部、読めました?」
「はい」
「気になるところは?」
「ない」
二人が署名する。俺が最後に指を置くと、《契約保証》が発動した。文字の縁を淡い青い光が一度だけ走り、すぐ消える。俺の加護が初めて、勇者の役に立った。
商会を出ると、神崎さんは自分の左手首を何度も見た。
「終わった……本当に?」
「終わりました」
「明日からアーデル商会?」
「明日は休みです」
「え、明日休みなんですか?」
「契約開始は明後日です」
「じゃあ明日、何するんですか」
「知りませんよ。休日なんだから」
神崎さんが立ち止まった。数秒してから、ものすごい勢いで俺の肩を掴んだ。
「マジで釣り行っていいんですか?」
「行けばいいでしょう」
「朝から?」
「好きな時間に」
「夜まで?」
「休日の意味分かってます?」
「分かってるつもりだったんですけど、ちょっと自信なくなってきました」
◇
翌日。
神崎さんは本当に朝から釣りへ行った。夕方、俺の店へ魚を三匹持ってきた。
「一匹どうぞ」
「ありがとうございます」
「めちゃくちゃ楽しかったです」
「それは良かった」
「来週も行けるんですよね? 毎週?」
「勤務表どおりなら」
「すげえ……」
週休二日で感動する王国最強勇者。この世界の人材市場、かなりおかしいかもしれない。俺の方にも報酬はあった。アーデル商会から受け取った紹介手数料は、金貨二十四枚。
この職業紹介所を始めてから半年弱。これまで稼いだ利益を、一日で超えた。
「勇者って儲かるな……」
「言い方最低ですよ」
「市場価値の話です」
俺は店の外へ出た。看板には、これまでこう書いてあった。
サエキ職業紹介所
料理人。職人。商会事務。護衛。その他相談。
俺はその一番下に、小さな板を一枚追加した。
勇者・高位技能者、転職相談承ります。
「来ますかね」
「さあ」
「勇者なんて、そんなに辞めたがってるかな」
「神崎さんみたいなのが他にもいたら来るんじゃないですか」
◇
そんな話をした翌朝。開店前から、店の前に一人立っていた。
白い法衣に金糸の刺繍。胸元には、この国最大の教会が聖女にだけ与える紋章がある。
俺が鍵を開けると、女性は少し眠そうな顔で頭を下げた。
「あの」
「はい」
「勇者じゃなくて、聖女でもいいですか?」