# 第2話 勇者を辞めるには金貨百枚
金貨百枚。
神崎さんは契約書の一文を三回読んだ。
「無理ですね」
「何がです?」
「辞めるの」
「なんで?」
「百枚ですよ」
「百枚ですね」
「俺、貯金十二枚しかないです」
「じゃあ八十八枚足りませんね」
「そういう話じゃなくて」
神崎さんが頭を抱えた。勇者の月給は金貨三枚。衣食住は王城持ちだが、足りない八十八枚を自力で貯めるには二年以上かかる。契約期間は五年か、魔王討伐まで。
本人都合で解除できる条項はある。だが、百枚では実際にはそう簡単に辞められない。俺の《契約保証》でどうにかできる話でもない。
俺は解除条項の前後をもう一度読み直した。
「装備の返却もありますね。王国貸与の鎧と馬は返還」
「それは分かります」
「聖剣は……貸与品一覧に入ってない」
「え?」
神崎さんが身を乗り出した。
別紙をめくる。《聖剣適合》が発現した時点で、聖剣アルディオンの管理権は適合者へ移る。死亡、または適合喪失時に王城へ返納。
「王城の宝物庫にあったんですよね」
「はい」
「王城は保管してただけみたいです。退職しても返還対象じゃない」
「そんなこと書いてあったんですね」
「三十二ページありますからね」
他の解除条件も確認する。
魔王を討伐した場合。
重大な疾病などで戦闘継続が不可能になった場合。
王国側が契約解除を申し出た場合。
そして、本人都合で中途解除する場合は金貨百枚。
「本人都合で辞める場合、必要なのは百枚だけですね」
「じゃあ、本当に百枚だけ?」
「百枚払えば、契約上は辞められます」
「だから百枚ないですって」
「神崎さんが払う必要あります?」
神崎さんが顔を上げた。
「え?」
「転職先に出してもらえばいいでしょう」
「え、そんな会社あるんですか?」
「探します」
「いや、百枚ですよ?」
「百枚出してでも神崎さんを雇いたい会社を探します」
俺は別の紙を出した。
「そのために、今まで何をやったか教えてください」
話を聞くと、実績が次々出てきた。オーガ十二体を一人で討伐。ワイバーン三体を撃墜。東部街道を塞いだアーマーベアを単独討伐。
魔王軍の斥候隊二十七人を撃退。王女護衛中、襲撃者十五人を死者なしで制圧。
「最後のやつ、死者なし?」
「人間だったので。殺す必要なかったですし」
「十分です」
この世界にも護衛業はある。大商会は隊商一つ動かすのに、十人から二十人の護衛を雇う。危険地域ならさらに増える。一回の遠征で金貨十枚、二十枚は珍しくない。
襲われて荷物を失えば百枚どころでは済まない。
「百枚って、神崎さんにとっては大金ですけど」
「はい」
「神崎さんを雇う側からすると、そうでもないかもしれません」
「……そんなもんですか」
「そんなもんか確認してきます」
◇
その日の午後。俺は王都最大のアーデル商会へ行った。これまでに料理人二人と帳簿係一人を紹介したことがある。その時から窓口になっている人事部長のグスタフは、俺が勇者の話を始めると露骨に眉をひそめた。
「勇者殿を、うちへ?」
「はい」
「冗談なら忙しいので帰ってくれ」
「月十二日勤務でどうです?」
「……何?」
「職種は高危険度護衛。主に高額な荷を運ぶ隊商の護衛です。遠征は月二回まで。通常勤務は一日八時間程度。魔王軍との戦争には参加しない。休日の呼び出しなし」
「待て待て」
グスタフが手を上げた。
「雇えるのか?」
「条件が合えば」
「王国の勇者だぞ」
「契約解除条項があります」
「……いくらだ」
「金貨百枚」
グスタフが背もたれへ戻った。
「高い」
「去年、南街道で荷を奪われた損失はいくらでした?」
グスタフが眉を上げた。
「どこで聞いた」
「公開されてる商会の報告書です。金貨二百八十枚相当」
「積荷だけならな」
「護衛が七人亡くなった」
「……そうだ」
「今年、同じ街道を何往復します?」
「十二」
「大型魔獣が出た時は?」
「護衛隊を増やす」
「神崎さん、先月あの街道のアーマーベアを一人で倒してます」
俺は実績一覧を机へ置いた。
「違約金百枚。月給二十枚。月十二日勤務。危険任務には別途手当」
「王城では月三枚だろう」
「だから辞めたいんです」
グスタフが笑った。
「随分吹っ掛けるな」
「月二十枚で、騎士団一個小隊より強い護衛が来ます」
「常時ではない」
「十二日です。それ以外の隊商は今まで通りでいい」
「その二本の隊商、今は護衛に月いくら使ってます?」
「平均で四十枚前後だ」
「神崎さんは月二十。二本とも危険任務なら手当を入れて二十四枚。差額十六枚なら、採用費百枚は半年ちょっとで回収できます」
「事故がなければな」
「去年は一回で二百八十枚失ってます」
「途中で死なれたら?」
「危険任務には手当を付けて、月何回までかも決めます。今みたいに何でも神崎さんへ回す契約にはしません」
「言うなあ」
「転職屋なので」
グスタフはしばらく実績一覧を眺めた。そして、机の端にある呼び鈴を鳴らした。
「金庫番を呼べ」
「契約します?」
「条件をもう少し詰める。そこまでできたら、商会長に決裁を回す」
「もちろん」
「一つ聞く」
「はい」
「勇者殿本人は、本当にうちで働くと言っているのか?」
「まだです」
「は?」
「俺が勝手に転職先を探してる段階なので」
グスタフが額を押さえた。
「お前、よくそれで百枚の話を持ってきたな」
「条件悪かったら神崎さんに見せる意味ないので」
「……気に入った」
それから一時間、勤務日数、宿泊、遠征回数、装備修繕費、危険手当、契約解除の条件まで詰めた。俺は合意した内容を一枚にまとめる。
職種は高危険度護衛。月給金貨二十枚。月十二日勤務。連続二日の休日を月四回確保。危険任務は一回につき追加で金貨二枚。本人が希望しない対人戦争には参加しない。
神崎さんがこの条件を受けるなら、最後に《契約保証》を掛ける。後からどちらか一方だけが条件を書き換えることはできない。
その日の夕方、商会長の承認が下りた。
「王国への違約金百枚は、採用費としてうちが負担する」
グスタフが金貨百枚分の商会証書を机に置いた。
「神崎に返済させる形にはしませんよ」
「当然だ。百枚の借金を背負わせて連れてきたら、王国とやっていることが変わらん」
「そこまで契約書に入れます」
「本当に勇者をうちで雇えるなら、安い買い物だ」
◇
翌朝。
条件表の一行目を見たまま、神崎さんは五分くらい動かなかった。
「え、月二十枚……?」
「危険手当は別です」
「休み、月八日あるんですか?」
「最低で八日です」
「じゃあ釣り行けるじゃないですか」
「休日なので」
月給が六倍以上になった時より、明らかに反応が大きかった。
「俺、これ受けたいです。めちゃくちゃ受けたいです」
「じゃあ次です」
「次?」
俺は金貨百枚分の証書と、《勇者雇用契約書》を重ねた。
「退職手続きです」